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2002.11.8
ツバメノート


「ツバメノート」社の大学ノートを愛用しています。

「大学ノート」って、どういう理由でそう呼ばれているかと思い、ちょっとインターネットを検索して調べましたら、あるサイトにヒットしました。
 大学ノートと呼ぶのは大学前で売られていたため、当然大学生が買って使うので自然に「大学ノート」と呼ばれるようになったようだ。
とってもドライな解説にぐうの音も出ません。

で、私がなぜ「ツバメノート」の大学ノートを愛用しているかといいますと、その書き味にこだわっているからとかそういう理由ではなく、表紙裏の「製品解説」が非常に味わい深いためです。

表紙をめくると、まず「信頼のツバメマーク」なるものが誇らしく印刷されています。
また、「一万年以上永久保存が利く中性紙フールスです」という興味深い記述も。

そもそも「永久」なら「○年以上」という記述自体が不要なはずですが、自分の身の周りで一万年以上保存したい情報というのもそうそう思い当たりません。
むしろ私がノートに書き込んでいる内容のレベルを考えれば、一万年以上保存されてしまうことの方が困ります。

しかし、そんな私の迷いに気付いたかのように、最後に力強く
  引き続きツバメマークのフールス紙のノートを御愛用下さい!
と結ばれており、引き続きツバメマークのノートを愛用している私です。




2002.11.11
Paul McCartney!!!!!!!!!!!


例によって国会対応に追われ、時間も0時をまわろうという頃、突然、携帯電話に弟から電話が。
  「おー、俺だ!」
大変上機嫌なようです。
  「見てきたぞ!ポール・マッカートニー!」
ああ・・・そうでした。今日はポール・マッカートニーさんの日本公演の日でした。
  「お前、なんで来ないんだよ!ポールを見ないで死ねるかって!」
大変酔っているようですが、言っていることは正しくその通り。私はなぜこんな時に仕事をしているのでしょう。

ベースはやっぱりカッコ良かったんでしょうか?
  「当たり前だって!」
しかし歳も歳ですし、歌声の方は多少は衰えているのでは?
  「バカ!昔と同じだって!ケケケ」
弟が何故これほどまでに酔っているかという問題は別にあるとして、コンサートは本当に良かったようで、ビートルズの曲もたくさんやりましたとさ。う〜。

そうこうしているうちに完全に朝になり、午前6時。
せめて一旦着替えに帰宅しようかと思い、インターネットのニュースサイトを見ましたら、そこには既に昨晩の公演の記事と写真が−

ポール・マッカートニー!
あぁ、カールヘフナーのバイオリン・ベースを持って笑っています!

徹夜明けですっかり弱っていることもあって、涙が出そうになりました。
この人がひとたびベースを弾いて歌い出した日にゃ、それはもう、カッコ良いなんてもんぢゃあないんでしょう。分かります。分かりますとも・・・。




2002.11.15
Simon&Girfunkle!!!!!!!!!!


今日はNHK-BSで、午後9時30分から「サイモン&ガーファンクル・イン・セントラルパーク」が放送される予定です。

職場から妻・利江さんに電話で番組の録画をお願いし、夜中に帰宅しましたら「ガーモン、うまく録れたよ。」と言っています。
きっと利江さんの中では、「ガーモンとサイファンクル」という名前で記憶されているのでしょう。

ともかく急いで服を着替え、テーブル上にビールをセットし、満を持してビデオをスタートさせましたら、いきなり熱狂のコンサート会場の映像、そしてステージ上に「E・Yazawa」という電飾が!こ、これは?!
一体何が起こったのか一瞬全く理解不能でしたが、たまたま直前の番組が矢沢栄吉さんのコンサートの番組で、そのエンディングが数秒ほどかぶっていただけと分かり、死ぬほどホッとしました。

本当に久しぶりに見た懐かしいセントラル・パークの映像。
このところ、たまたま高校時代の同窓会があったり、ポール・マッカートニーさんの日本公演があったりと、妙にその当時に引きずられる機会が多いからなのかもしれませんが、私は完全にやられました。


ニューヨーク市長の「Simon,and,Girfunkle」という紹介で現れた2人。そうです、この時ポール・サイモンさんの持っていた黒のオベイション!
当時「オベイション」と言えば「アダマス」という高級機種がフォーク界に蔓延していましたが、そんな中、この黒の無地のオベイションの印象は鮮烈で、私の友人の山口君は大枚をはたいて購入していました。

バックのバンドも絶妙で、中でもキリストのような顔のスティーブ・ガットさん(ds)と、例によってジャージのようなものを着ているリチャード・ティーさん(key)の格好良さは異常と言って良いと思います。

あー、でも、良かったなー。最初から最後まで、一気に見ました。
真骨頂である2人による静かなコーラスが良すぎるのも言うまでもないのですが、「Me and Jurio Down by the Schoolyard」、「Kodachrome」、「Late in the Evening」といったアップテンポの曲が、秀逸なホーンセクションとも相俟って、ものすごく楽しい。
観客もきっと同じなのでしょう。53万人というとてつもない数の観客がたまらず立ち上がり始めるのですが、まるで波が打ち寄せるような光景です。
ああー、分かります。わかりますとも!その場で聞いていたら、もう、立って体を動かさずにいられないのでしょう。

というわけで、土曜も日曜も、ずーっとセントラルパークの映像を見ている私です。




2002.11.19
電人ザボーガー


今朝、課のアルバイトの女性が私のところに新聞の切り抜きを持ってきて、「これ、御存知ですか?」と聞いてきました。
見ると、このたび発売された「電人ザボーガー大全」なる書籍が抽選で3名様に当たる、という記事。

この女性は私の嗜好をよく御存知で、先日も何かのオマケで当たったミクラス(ウルトラセブンに登場のカプセル怪獣)のフィギュアを頂戴しました。
今朝の新聞記事も、こうした私の嗜好に照らし、切り抜いて持って来てくれたものと思われます。

しかし私はこの「ザボーガー」なる電人の記事に対し、実は全く反応できませんでした。
ザボーガー・・・。
そんなのいましたっけ? だいたい「ザボーガー」とは、およそヒーローの名前とは思えぬ間の抜けた名前。
トーテムポールから切り取ってデカイ耳を付けたような顔(右図)にも見覚えがありません。

これは調査が必要です。
まずは職場の同僚に電人ザボーガーを御存知かと聞いてみましたら、これが案外多くの方から知っているとの反応があり驚きました。が、一方でその詳細を記憶している方となると俄然少ないという状況。
やはり想像以上に中途半端な存在であることがうかがえ、更に興味が膨らみます。

そしてインターネット等で調べに調べた結果、この「電人ザボーガー」、実に味わい深いヒーローであることが分かったのです。
逆に既に電人ザボーガーの魅力を十分御存知の方は、ここまで、さぞ歯がゆい思いで本稿を読み進めていらっしゃったことでしょう。心よりお詫び申し上げます。

そもそも私達は、「ヒーローもの」と言えば主人公が変身してヒーローになるスタイルが定番として擦り込まれていますが、この番組は、大門豊さんなる主人公が生身で悪と戦う一方、電人ザボーガーは電人ザボーガーで、大門さんの傍らで同じく悪と戦うようなのです。
これは大変珍しい図と言えます。
大門さんが自分で戦えるのであれば、ザボーガーは特にいなくても良いのではという気がします。

実際、文献によると、当時ブルース・リーの映画が流行していたこともあって大門さんの格闘は力強く、もしかすると電人ザボーガーよりも強いのではないかと思われる場面もあったとのこと。
電人ザボーガーの存在意義は、ますます薄まってきたようです。

そして。
この図のとおり、ザボーガーはバイクになるのです。
「バイクにのる」ではなく、御本人が「バイクになる」のです。
ヒーローがバイクに乗るというのはよく聞く話ですが、お前自身がバイクになってどうするという気がしてなりません。

ただし、ザボーガーの関連サイトが多いのには本当に驚きました。Yahooで検索して1600件。
私が不案内なだけで、多くの方を大いに魅了している電人なのですね。




2002.11.24
to Europe


本日より1週間、会議のためヨーロッパへ出張です。
これまでサウナの中、フェリーの2等船室など、様々なポイントから発信してきた当アワーですが、その中では最もましな場所ヨーロッパよりお届けいたします。

今回の会議はイタリアで開催される「Science in Support of European Water Policies - Sustainability of Aquatic Ecosystems」というもので、欧州の水環境政策に関する国際会議。
その前後にドイツ、フランスに入り、先方の政府関係の方と、同様に環境関係の打合せを持つという行程です。
こうした国際会議の場合、通常、関係セクションの参加者が他に何人もいるものなのですが、訳あって1人ぼっちでの渡航です。
ネットの接続トラブルに遭遇し、更新が完全に途絶えることも考えられますが、その時は、今頃橋本幸はどこかの国でピンチに陥っているのだなと想像して下さい。




2002.11.24
Tokyo→Frunkfurt→Berlin


「その時は、今頃橋本幸はどこかの国でピンチに陥っているのだなと想像して下さい。」などと書いていた十数時間前が懐かしい程のピンチの連続で、インターネットへの接続など、望むべくもありません。少々特殊な方法で、何とかこのSOSをUPしています。
今はベルリン市内。
次に本ページにアクセスできる日まで、さようなら。




2002.11.25
from Berlin


歴史は、時代や地域を問わず興味深いものですが、それにしてもベルリンのそれはあまりにも特殊で、その歴史を伝える物事を見聞きしても即座に感想が口をついて出てきませんでした。
御存知の方も多いのかと思いますが、右はゲシュタポの本拠地の地下壕の残骸の上に、ベルリンの壁の残骸があるという、その特殊なベルリンの歴史を凝縮したような場所です。
下では大量虐殺が計画され、狂っていく歴史がパネルの写真でせめてもうかがい知ることができます。

そしてベルリンの壁は、それが物理的には決して高くも厚くもない、という事実が何より重たく辛く感じました。
せめて人間がどう頑張っても越えられないくらい高くて厚ければと、意味もない勝手なことを考えたりしてしまいます。

そしてこの現代史をはさむ、ドイツ帝国等の栄光の絶頂期と、東西統一後の首都としてのベルリン。
ひとつの街の生い立ちとしては、ちょっと複雑すぎやしませんでしょうか。

ブランデンブルグ門、大聖堂等の建築物は、見ているだけで心臓がばくばくしてきました。
しかしよく見るとこうした建築物にも、あちこちに銃弾の跡が。

仕事のアポイントメントの関係で移動時間がとにかくハードで、ほとんど飛行機にしか乗っていないという印象ですが、その合間を縫ってこうした場を訪れることができたことは、幸運でした。




2002.11.25
Berlin→Milan→Straza


なかなか試練の多い移動でした。

飛行機は、それが国境を越えて2時間飛び続けるとはとても思えぬ衝撃の小ささで、見た目には殆ど新幹線から主翼が生えているようなイメージ。
空港内バスで飛行機の横に乗り付けた時は、軽く武者震いのようなものが走りました。

内部は内部で小さいというより、とにかく細く、イメージは「飛ぶカプセルホテル」です。
私の座席は「8J」。「J」ですからずいぶん大きな飛行機だなと思っていたのですが、横から 「A→J→K」という詐欺のような座席配置で、左に1列、右に2列。
武者震いはただの震えに変わりました。

途中、機内食が出されましたが、これが「120%手作り」という品で、もしかするとフライト中にこの客室乗務員が調理していたのではと思ったほどです。
よく「機内食はまずい」ということをおっしゃる方がいますが、初めて意味が分かりました。

飛行機の発着も当然のようにして大幅に遅れましたが、"ドカーン"という衝撃と共にミラノに降り立った時は、それだけで神に感謝しました。
しかし既に公共の交通機関等もない上、もの凄い雨。
怪しいおっさん達が列をなして待っているタクシー乗り場で怪しい英語で値段の交渉をし、深夜、やっとの思いで会場である湖水地方のストレーザのホテルに入ったのです。

やっぱりドイツ語、イタリア語が分からない上、1人というのが何かと不安を増幅させるんでしょうね。
無事に着けて良かったと脱力しつつビールを飲みました。




2002.11.27
from Miran


ずーっと雨です。
視界がほとんど開けず、ここが湖水地方の景勝地なのか、何も無い単なる田舎なのかすら分かりません。
というわけで、2日目の会議後、私は列車に乗りミラノへ足を伸ばしました。
建築物や街並みが素晴らしいことは言うまでもありません。

ミラノ中央駅で地下鉄に乗りましたら、ホームにギターを抱えた大人とバイオリンを持った子供の姿が見えます。
「あー、どこかに楽器の練習に行くんだなあ」と思っていたら、いきなりこの2人が楽器を弾き始めました。
ギターとバイオリンで奏でられるジプシー調の曲は、車内には少々お呼びでない悲しみを帯びています。

ところが次の駅で、今度は太った男性がピアニカを持って乗ってきて、ひとしきり叫んだ後、これまた超お呼びでないバカ陽気な曲を吹き始めました。
私の乗った車内は今や音の陰と陽が交錯し、完全に説明不能な状態となっています。

恐らくこの国でこうしたことは日常茶飯事で、他の乗客はさして気にも留めていない様子ですが、私はもうこの戦いに釘付けです。
結局、両者はそのあと喧嘩を始め、ギャーギャー言い合いながら降りて行き、両者リングアウトとなりました。

音楽が生活の中で生きている!
とても良いものを見ました。




2002.11.28
Miran→Paris


私はローマに行ったことがないので分からないのですが、モノの本によると、ミラノは歩いているだけで楽しいローマに比べると、歴史的建造物の数は少ないとのこと。
確かにローマの歴史を考えるとそうなんだろうなと容易に想像もつきますが、ビギナーの私には十分です。

ドゥオモ、ガレリア、スカラ座・・・と足早に歩き(どれもが素晴らしい)、レオナルド・ダビンチさんの「最後の晩餐」がその壁に描かれているという、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の前に来ました。
「最後の晩餐」の大修復の行程は日本でもよく伝えられていましたので、その絵がこの教会の中にあると思うと一目だけでも見たいという気持ちになります。
しかし見学は「要予約」。突然やって来た私には残念ながら、かないません。
「要予約」とは出発前から承知してはいまして、自分の予定が全く未確定でとても予約を入れられるような状況にないことから諦めたのですが、結局こんな目の前に来ているのだったら、仮にでも何でも予約を入れておくんだったなーと、教会を見上げながらとても口惜しい気持ちになりました。

その場を離れ、そのダビンチさんを記念した科学技術博物館の方に行きますと、天文や電気、蒸気機関等々、本当に様々なジャンルにわたる彼の功績に関する展示があり、これまた私の薄っぺらい理系マインドを刺激します。やはりダビンチさん、ただ者ではありません。
問題は、ここでダビンチさんの偉業に触れれば触れるほど、彼の傑作を見ないでどうする、という気持ちがどんどん強くなっていくこと。
絵画ならともかく、壁画。他で見ることは確実にできないのです。

やっぱりここはダメでもトライはするべきで、それでダメなら諦めもつきます。
私はもう1度教会に戻り、予約はしていないのだが絵を見せてもらえないだろうかと頼みました。
よほど力んでいたのか、「今日見せてくれ」というところを「明日見せてくれ」と言っていたようで、明日の事をこんなに切羽詰まって懇願しているのも不思議だったのでしょう、「Today?」と確かめてきました。

 「Oh,yes. Today.」
 「Nmm-, OK.」
 「え? Reary?」
 「Yes.」
 「Thank you very much. グラッツェ!」

3ヶ国語が混じる謎のトークで、私は幸運にも「最後の晩餐」を見る機会を得ました。
この時の嬉しかった気持ちを私は一生忘れることはないでしょう。

二重のセキュリティチェックの後、大食堂に入りました。
薄暗くがらんとして静かな食堂。
その壁に描かれた絵が目に入ってきた瞬間、「これがあの」という心理的効果も手伝って、多少大袈裟かもしれませんが魂が奪われるようでした。

シーン。
10分くらい、ずーっと眺めていたでしょうか。時間が来ました。
後ずさりし、遠くなっていく「最後の晩餐」見ながら、この食堂を出たのです。

良かった!来て良かった!
そう何度も思いながら、列車でまた湖水地方へ帰りました。
湖水地方は相変わらずの雨です。
*

そうして結局4日間雨のまま、湖水地方での会議は終わり、今はパリ。
ハード過ぎて、体も相当きついのですが、あと一仕事です。
パリは、凱旋門とクリスマスのシャンゼリゼ通りがものすごく綺麗です。