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2010.3.7
3Dとイナズマン


「2000年代がデジタル産業革命の時代だとすれば、10年からは3D(3次元)産業革命の10年になる」
先日読んだ雑誌エコノミストの、とある記事の書き出しにこうありました。
実際、パナソニック、ソニー、東芝、シャープ、サムスン・・・と、各社が世界市場に投入していくとのこと。
映画「アバター」も空前のヒットですもんね。

記事によれば、各社とも左右のレンズ部に液晶シャッターのついている専用メガネを用いる方法を採用しているとのことですが、課題が何点か挙げられており、その1点目が「専用メガネを装着する非日常感」。
うーん、確かにそれはそうですよね〜、分かります分かります。

ん?「それはそうですよね」などと分かったようなことを言っているが、橋本は3Dのことなど知らないとお思いですね?
ふんふん、しかし違うのです。
何しろ私(及び同世代の男子)がこの3Dなるものを体験したのは実に35年前、10歳の頃のことなのです!!

*

あれは確か、当時住んでいた千歳市の映画館に「東映マンガ祭」か何かが来て友達と行った時のこと。
お目当ては「イナズマン」です。

イナズマン!
旧人類の抹殺を目的とする「新人類帝国ファントム軍団」及び「帝王バンバ」と戦うヒーローです。

このイナズマン、主人公の渡五郎(わたり ごろう)さんが「ゴーリキショーライ!」というかけ声と共に変身するのですが、ここで大問題なのはこのかけ声のカッコ悪さではなく、渡さんがイナズマンに変身する過程で必ず「サナギマン」という中間状態を経なければならないこと。

このサナギマンがもう絶望的に弱く、サナギマン状態の時間はファントム兵士達にやられ放題。
イナズマンになる前にやられて終わってしまうのではないかと思ったことも、一度や二度ではありません。



さて、35年前のその日も、同じように千歳市の映画館のスクリーンでサナギマンはやられています。
死ぬな!サナギマン。

しかしサナギマンは耐えに耐え、ついにイナズマンに変身する時が来ました。
「チョーリキショーライ!!!」(←イナズマンに変身する際のかけ声)。


−その時です。
クライマックスを迎えようとしていた画面が突然停止し、素のイナズマンが現れました。
そして私たちに向かって「さあ、ここで君たちが持っている立体メガネをかけてくれ」と話しかけてきたのです。

「こ、これは一体!」
前のめりになっていた私たちは、何が起きたのか分からず狼狽するばかり。

しかし何しろイナズマンに指示されたのです。
私たちは映画館の入り口で渡された、赤青のフィルムが貼ってあるペラペラのメガネを急いで探し、かけました。

やや暫くして映像は再スタート。

・・・しかし立体的に見えているのかいないのか分からぬ微妙すぎる映像と、最も盛り上がったところで日常に引き戻されたためにテンションを上げきれずにいる自分、さらにこのメガネをかけている姿は明らかに間抜けなのではないだろうかという小5なりに感じる冷静さとが相俟って、全く盛り上がらぬまま映画は終了しました。

*

あれから35年。
ついに「まともな」3Dの世界に突入したということになりましょうが、考えてみればあの実験的すぎる映像から長い時間がかかったものですね。
逆に言えば、これだけデジタル技術が進歩した現在でようやくこの段階ですから、アナログ真っ只中の35年も前に、よくもまあ立体映画などにトライしたものと半ば呆れ、感心します。

いま映画館で、アバターとイナズマンのどっちが見たいかと問われれば、もう100倍以上、イナズマンです。(100回観たいという意味ではありません)




2010.3.18
友人の死


「What a wonderful world」と書いて札幌から旭川へJRで向かっていた15日の10時30分、携帯電話に、大学時代の芝居仲間・西村君が亡くなったという知らせが入りました。
皮膚の癌で、約2年間の闘病の末のことでした。

奇しくも昨年亡くなった清水さん同様、小学6年生の男の子一人と奥様が残されました。
亡くなる前日が卒業式だったようで、中学の入学式まで頑張る、と話していたようです。
死ぬ間際、どんなに無念だっただろうかと思うと、余りにも悔しく悲しい気持ちになります。


大学の演劇研究会時代、学内に自由空間を創りだそうと、深夜の暗闇に紛れてプレハブを建てた(数日後「当局」に囲まれあえなく解体)時の映像が残っていて、車座になって飲みながら夜通し議論している中に西村の姿が映っているのを思いだし、昨日見ました。
妙に攻撃的な一連の映像の中で、西村は「自分は自由って何だか知らないし」と朴訥に語っています。

あれから20年、西村は自由に生きたでしょうか。
これからは、自由にこの世とあの世を行き来して、奥様や息子さんをずーっと守って欲しいと願います。




2010.3.28
靖国神社&赤羽商店街さくらまつり


さくらまつりは様々な点で最高でした。
週末まで雨まじりの寒ーい日が続いたので、桜自体は恐らくかなり遅れているものと思われますが、ピンポイント的に晴れて、非常に気持ちの良い日でした。

無論仮設ステージの造りも味わい深い感じでしたが、これまで数え切れない程こなしてきた北海道内の「○○町内会△△まつり」等に比べると、さすがに大きさが違いました。
これでいつ「○○まつり」系への出演を引退しても、思い残すことはありません。

会場に着くと、既に神田あたりの法被を着たご婦人達が、明る過ぎる曲に合わせて踊っています。
曲は勿論「東京音頭」。これが正しい東京音頭の使い方なのですね。

百香さんとの演奏終了後、百香さんは新聞のインタビューを受けていましたが、社名を聞くと十勝毎日新聞!
ううーん、きめ細かな取材網、さすがは道東をシメているだけあるなと、妙に感心しました。

ところで演奏の場や機会は様々ありますが、こうしたお祭りのステージの場合の醍醐味は、終了後その場で打ち上げを開始できること、もうこれに尽きましょう。
とりわけここは「靖国神社さくらまつり」。周囲は全軒訪れたいような怪しい屋台だらけです。

この日はまず外で、ビール&焼き鳥(残念ながら室蘭風豚肉焼鳥はなし)、続いてテント造りの屋台に入店し日本酒&鮎(看板によれば四万十川産)・ほたてというコースとなりました。
写真は魅惑のテント内。無数にある桜の木も、時にかわし、時に隙間なく屋根を貫いて、と学生時代のテント芝居時代に戻って活用したいテクニックだらけでした。

ところで翌28日は、赤羽の住まいの近くの小さーな「桜まつり」にも行ってみましたが、こちらはこちらでお客様らしき人は多くないものの、運営サイドと思われる周辺の大量のご老人達が実に楽しそうにお祭りしていて、負けず劣らず良い感じでした。

東京はいよいよ本格的に桜が咲きはじめ、これがゆっくりと北海道まで進んで行くのですね。




2010.3.30
お別れの季節


長男・伶(5歳・幼稚園年中)の親友・たかとくんが、4月に引越になるらしく、伶が手紙を書いています。
いつもあそんでたのわ たのしかったんだけど
ひっこすのわ がっかりなんだけど
たかとくんもがんばってね。
助詞「は」が「わ」と表記されていたり、「だけど」が重ねて使用されていたりと突っ込み所満載なのですが、一応「たかとくんも頑張ってね」とまとめることに成功したようです。
文字色は、贈る言葉として彼なりにデコレーションしたものと思われます。

ちなみに、続く部分は「そうだ クリスマスにもらった〜」といったことが書かれているよう(+「そ」は相当難度の高い文字のよう)で、昨年のクリスマスにもらった何かを思い出したようなのですが、ここで何かに気が移ったのか、突然手紙が終わっています。

たかとくんは、去年4月に東京に引っ越してきて最初にできたお友達。
親にしてみれば、引越になってしまってガッカリなんだなあ・・・と思うと可哀想で仕方ないのですが、何しろ5歳。
落胆しているようにも見えれば、どのくらい分かっているのやらコイツは?というようにも見え、ある意味それが良く表れた手紙と言えましょう。

5歳でもガッカリというくらいなので、明日3月31日は各地で色々なお別れがあるのでしょう。
今年度は、違う意味での悲しいお別れも多かった1年でした。

新年度、また新たな気持ちで頑張りましょう。