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2011.7.3
ナポリン小話


先月の当ページにて、エア・ドゥ機内における「リボン・ナポリン」100周年キャンペーンと姉妹飲料「リボン・シトロン」の存在について触れたところですが、ライバル同士の両者にまつわる興味深い回想を、職場の同僚・M田さんから伺いました。

ここで勝手に両者を"ライバル"と書きましたが、当時は恐らくナポリンの派手なオレンジ色が透明なシトロンの色を凌駕して小学生の心を捉えていたと想像され、事実 M田さんの小学校においても ナポリン派がシトロン派を圧倒していた模様です。
ところがそんな中で突然、M田さんの学校でリボン・ナポリンのクオリティに関する「ガラスの仮面」的嫌がらせのような噂が流れたというのですから興味深いですね。「シトロン派」の策動でしょうか。

しかし、その噂なるものの内容を聞くと、 「ナポリンの色は虫の色を使って着色している」という、およそ小学生しか決して思いつかないだろうレベルの噂で、逆に驚きました。
仮に"シトロン派"の手によるものだったとしても、これでは形勢逆転は難しいことでしょう。

しかし更に驚いたことに、この日を境にM田さんの学校ではあっという間にナポリン人気が衰え、シトロン派が主流派となったとのこと。
うーん、でも考えてみれば小学校って、こんなレベルの出来事が日常茶飯事のようにあった気がしますね。

そもそも思い出してみると30年くらい前って、情報が少なかったからか、不定期に食べ物・飲み物に関する根も葉もない噂がまことしやかに流通していた記憶があり、何となく時代を感じました。


さて、こうして書いているうちに北海道が懐かしくなって北海道新聞社のニュースサイトを開いてみましたら、本日20:02現在のトップ記事の見出しは
特急、クマはねる JR石勝線
となっており、さすが北海道。
常に予想を超える、このワイルドさが魅力ですね。




2011.7.4
ナポリン大話


図らずも2晩続けてリボン・ナポリンの話題となりましたが、これには深い訳があるとご理解下さい。

本日朝、昨晩の記事で登場したM田さん御本人から一通のメールが。
メールを開くと「驚愕の事実を発見してしまいました」という内容で、下段にインターネットサイトのURLが貼ってあります。
クリックしますと 「北海道発、情報発信ウェブマガジン」と謳われた 「Pucchi Net」なるサイトへと到達しました。

初めて訪れるサイトでしたが、見ると当該サイトでもリボン・ナポリンのことが紹介されています。
「なるほど、M田さんは何かナポリンに関する追加的情報を提供して下さろうとしたのだな。」
という程度の認識で記事に視線を移したのですが、その導入部にいきなり
よく「リボンナポリン」の原料には虫が入っている、と噂されますが、本当はどうなのでしょうか。
今回は「北海道限定リボンナポリン」の秘密に迫ります。
という衝撃の記述が!
えっ??!!
私の脈拍が早くなり始めました。
「よく噂される」って、そんな噂の存在自体を昨日、一蹴したばかりだというのに・・・。

記事はリボンシトロン&ナポリンに関する概括的な解説から入り、ナポリンのオレンジ味に関する話題へと進みます。
それらを経由して、最後に以下のような説明文が。
サッポロ飲料公式回答によると、鮮やかなオレンジ色の色素には「コチニール色素」が使われています。
コチニール色素とはなんぞや?というと、特定のサボテンに寄生している中南米原産のカイガラムシ科エンジムシから抽出し製造した天然色素。
全般にわたって丁寧だった言葉遣いも、なぜか最重要の1センテンスだけ 「ムシから抽出し製造した天然色素。」と体言止めで言い放たれており、まるで私に対してクールな怒りが向けられているかのようです。

サヨナラホームラン級のこの情報に、私は朝一番からすっかりやられました。
改めてサイトのタイトルを確認すると、ご丁寧に [常識/習慣] という表記が付されており、この噂が「常識」とカテゴライズされる種類のものであることをダメ押し的に示しています。

「そうだったのか・・・。」
私は、北海道人としての常識の欠如を世界に発信してしまいました。

すまん、カイガラムシ科エンジムシ&リボンナポリン!
昨晩の稿は 【特急、クマはねる JR石勝線】 の記事を引用して 「常に予想を超えるワイルドさが北海道の魅力」と結びましたが、ナポリンはそれを遙かに超えたワイルド飲料でした。




2011.7.9
徹子の部屋とウルトラQ


既に御覧の方も多いかと思いますが、左は先週、レディ・ガガさんが「徹子の部屋」に出演した際の玉ねぎファッションの写真です。
ガガさんの過激・ユニークなファッションは日々世界に発信されていますが、(少なくとも私にとって)間違いなく現在のところナンバーワンです。
長時間見ていても全く飽きません。

なぜこんなにこ飽きずに見続けられるんだろうと暫く考えたのですが、この写真の構図やシュールな感じが、ウルトラQのスチール写真を思わせるから、という我ながらなかなか渋い点に辿り着きました。

ウルトラQの放映開始は自分が2歳の頃ですので、勿論リアルタイムで見る機会はなく、私が小1の時に発行された小学館の「ウルトラ怪獣入門」という図書が唯一の情報源です。

右がそれ。
表紙を飾るのは、この年、ウルトラセブン放映後の休止期間を経て、満を持して始まった「帰ってきたウルトラマン」です。
ちなみに対戦している怪獣はツインテールさんですが、満を持し過ぎたのか、一体どのように着ぐるみに入って動いているのかすら分からぬ奇怪な体躯の怪獣でした。 >>

で、その「ウルトラ怪獣入門」の中身ですが、ウルトラマンの再開を盛り上げるべく、各ウルトラ兄弟や怪獣の特徴解説に大半のページが割かれている一方、巻末には僅かなページながら、ウルトラマンのルーツである「ウルトラQ」が取り上げられておりました。


ところが、御存知の通りウルトラQは、"特定のヒーロー"が存在して勧善懲悪的に完結する分かりやすい世界ではないため、前半部分で単純に憧れれていたワールドとは明らかに異なる親しみにくさが横たわっており、子供心に強烈な存在感を感じたもんです。

ウルトラQのスチール写真が放つ最大の特色は、"特撮"で撮影していることに伴う、相対的にデカい怪獣と小さな人間達の何とも言えぬ「合成感」。
そりゃそうですよね。特撮でデカく見せている怪獣と、等身大の人間達は、撮影時に実際に相対しているわけではないので、円谷プロの技術をもってしても双方の視線が合わない感じ等が微妙に残ります。

で、それがイイのです。
そう、昔2chで青江美奈さんの「伊勢佐木町ブルース」をレビューした際も力説しましたが、合成は合成と微妙に分かってこそ魅力的なのです。>>


時代は流れ、今やCG等で、合成だろうが何だろうが、見た目全く違和感のない仕上げが可能な時代になりました。
ところがそんな中で見た冒頭のレディ・ガガさんと黒柳さんの写真は、単なる平場の出会いだというのに、逆に何というか、異次元生物をCGで出会わせたような雰囲気になってしまっています。
ガガさんと黒柳さんという、ウルトラQ並の2人の個性の激突により生まれた、「疑似合成」とでも言うべき新しい世界なのですね。


それにしても黒柳さん。大きさこそ下回っていても、また若さや勢いで及ばないとしても、喰われている感じがまるでありません。
何より、面白ファッションに関してはそこそこやり倒しているガガさんから、このように更なるポテンシャルを引き出すとは−
と、畏怖の念を禁じ得ません。




2011.7.17
過ぎ去りし永遠の日々


16日の土曜日、車で東北の被災地に向かいました。

午前中に東京を車で出たものの、距離が距離なので日が落ちる前にどこまで行けるか不安もありましたが、石巻あたりまで北上することができました。
今回はそのまま車中で寝て、翌朝、日が昇ると同時に南下しながら東京に戻るという行程。
かつて住んだ岩手・宮古方面まで行けなかった点は勿論心残りですが、本当に多くのものを得て、自分なりの目的には届いたように思います。
ただ被災地の惨状は、4ヶ月という時間が経っているが故に余計に恐ろしく感じるほどであり、ただただ無言で歩きました。

自分の車の中には常時小さなギターが積んでありまして、少しだけそれを石巻で弾きました。
弾きたい曲が妙に思いつかず、なぜかアコーディオン奏者のCOBAさんの曲が頭に浮かんだので、記憶を頼りに弾きました。

昔、某テレビ番組で手紙を読むシーンのバックで使われていた曲だったので、誰でも一度は耳にしたことのあるような曲なのですが、隣で聴いてくれていた素敵な女性に「何という名前の曲ですか?」とたずねられ、そう言えば曲名も知らないことに気付きました。
東京に戻ってインターネットで調べましたら、「過ぎ去りし永遠の日々」という曲でした。

過ぎ去りし永遠の日々。
(作り手のCOBAさんの想いは別にあるとして) 「過ぎ去りし永遠の日々」という日本語の意味するところは、その日々が二度と戻らないという悲しいことなのでしょうか。
それとも、過ぎた日々を例えば美しいもの・大切なものとして前向きに謳ったものなのでしょうか。

石巻で見た小学校は、津波に襲われて廃墟のようです。
ほとんど全ての物が押し流されてしまっているのですが、教室の片隅に、楽しそうな絵や"手を洗おう"という子供が書いたポスターなどの日常が、僅かに残って見えます。

それらは当然にして明日も続く日常だったはずなのに、一瞬にして"永遠の日々"になってしまったのでしょう。
その"過ぎ去りかた"はとてつもなく悲しいですね。

が、同じ石巻市内の別の場所で生き残った小学校では、食事どきだったからというのもあるのか、避難所となりながら不思議な活気が溢れていて、過ぎ去った先に何かをまた作っていくというエネルギーが何と強靱で前向きなものかということを、確かに感じました。

そんなわけで、思いがけず口をついて出たならぬ、指をついて出た「過ぎ去りし永遠の日々」は、自分の中で勝手に「震災の曲」と位置付けられました。
もちろん、強靱で前向きな曲として!

東京に戻ると、近くの「自然観察公園」からは、当たり前の日常として、風の音や子供の歓声などが聞こえます。
そんな音の中で、もう一度、弾き慣れてもいない曲を弾いてみました。
弾き慣れていないなら弾き慣れてから弾きゃ良いのでしょうが、イイのです。それが東北から戻ってきた今日という日の断面なので。



2011.7.23
もやしはいりません


金曜日、飲んでいるうちに朝となり、始発電車に乗ろうと都内某所を歩いていた未明のこと。
恐らく個人でやっていると思われる古くて小さな中華料理屋さんのお店の入口に、伝言板らしき、文字通り木製の板がぶら下がっています。

「今日もやしは いりません」
ツッコミの対象として、あまりに高い完成度。
私は店の前で息を飲みました。

一体これは誰に向けられた言葉なのでしょう。
まさか、単なる偶然で店の前に立ち、うっかりこれを見てしまっている私に?
だとしたら怖すぎて、私は二度とこの周辺を歩けません。

そもそも考えてみるに、こうしたお店において 「いりません」とは需要側=客が示す意思表示であり、供給側=お店が示す意志ではないはず。
そこで私は 「需要側=お店 供給側=もやし納入業者さん」と構図を組み替え、このメッセージが店のご主人からもやし納入業者さんに向けられたもの、という前提で状況を再構築してみました。

しかし、早起きして一生懸命もやしを運んで来た納入業者さんが、そのゴール地点で「いりません」と文字で通告される不条理さを思うと、それはそれで考えたくない状況ですね。
せめて 「"明日" もやしは いりません」と 前日に伝えてくれれば・・・という憤りを抑えられません。


うーん・・・。
土曜の早朝、店の前で不審に立ち止まり、泥酔した頭で考えてみるものの、条理の範囲内でこの難解な方程式を解くことは恐らく不可能。
無力感に打ちひしがれつつ、せめて反省材料にと写真に収めて帰宅したのですが−。

就寝直前、一つだけ解があることにハッと気付きました。
「今日 もやし はいりません」
そう、今日はもやしが入荷しない日なのです!
これであれば、"供給側(店)が 需要側(客)に伝える情報" として、何ら違和感なく理解が可能。
例えば、客がもやしの在庫不足を認識せぬまま入店し、注文して初めて"もやし切れ"を知ることによるガッカリやトラブルも未然に防ぐことができますね!


こうして本件は無事、"お店のご主人の改行位置の誤り"というケアレスミス案件として整理されました。
今日もまた、日本語の深さと魅力を実感した私。
心地良い疲労を感じつつ、お近くにお住いの方がこの伝言板で混乱することのないようにと、自説に基づくイメージ図の作成に着手し、終わることのない無駄な時間の続きを過ごしたのです。

イメージ図→